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Memorial Interview

「ダブルアニバーサリーデー」に登場するゲストの皆さんがホークスの思い出・ドームの思い出を振り返る連載企画。
第5回は6月24日(土)のセレモニアルイベントに登場する秋山幸二さん。2011年、当時監督として福岡ソフトバンクホークスを初の日本一に導いた秋山さんに、強いチームづくりのために意識していたことや日本一になった時の想いなどを伺いました。

2002年に福岡ダイエーホークスで現役引退されて、2009年からは福岡ソフトバンクホークスの監督に就任。それまで14年間もチームを率いた王貞治監督の次ということでプレッシャーもあったのでは?

それはあまり感じなかったというか考えませんでした。
2005年から2軍監督をやって、2007年からは1軍でコーチもしていたから次は自分かなというのは感じていましたし。2軍監督時代は楽しかった。上がっていく選手たちを鍛えるのはやりがいがあったね。
ただ、王会長(当時監督)の体調のこともあったし、あのタイミングでの就任でした。
野球選手ってのは『次、次』と先の情報を集めたり準備をするのが常なんですよ。だから過去に浸るということがない。
1軍で監督をやるんだと決まって、自分で腹をくくったら次のシーズンのことばかりを考えてバタバタしてたと思いますよ。だから重圧なんて感じるヒマもなかった。

どんなチーム作りを目指していたのでしょう?

まず孫正義オーナーから『優勝してください』と言われたことを覚えています。この世界、優勝や日本一を目指していくのは当然だけど、その気持ちに応えなきゃと思いましたよ。
チーム作りに関しては、ピッチャーならばまず先発の柱を作ること。4人は居たらいいなと思っていました。そして中継ぎと抑えのブルペンの柱もしっかり作る。適材適所を見極めて、誰をどこに起用するか。自分の場合は2軍監督やコーチとしてベンチに入っていたので最初から分かっている部分もありました。
そして、野手も今いるメンバーをどう使うか。自分の理想はあるんだけど、そういう選手が実際に居なければ具現化できないからね。
だったら今いる選手でどうやって強いチームを作ろうか。そんなことばっかり考えてました。

その理想とは?

打率3割、30本塁打、30盗塁できる選手が9人並ぶ。そして全員がゴールデングラブ賞。そうすれば監督は何もしなくていいかなって(笑)。まあ最大の理想だよね。自分が選手のときも10打席で10ホームラン打つのを理想にやってたからね。
でも、現実はそうならない。特に野球はいい投手が来れば簡単に点は取れない。けど、野球は点取りゲームだから、どうやって点数を取るのか考えないといけないんです。ホームランやタイムリーはもちろん、送りバントや盗塁を仕掛けて外野フライや内野ゴロでも1点を取るとか。その中でも足を武器にしようと思いました。
足を絡めることで得点パターンは増える。だから2軍監督時代から『走る』意識は徹底させた。『足が遅いので走れません』と最初からあきらめさせるのではなく、2軍監督の頃は『次の打者の3ボールまでに走りなさい』というサインを出していました。たとえ足が遅くても、走ることに対する習慣づけをするために。
自分が1軍監督になった時、2軍で一緒にやっていた選手も何人か上で活躍するようになっていた。また、キャンプではバントやバスター、エンドラン、右打ちなど細かいこともしっかり練習メニューに入れていました。

ほかに意識したことは?

やっぱり監督というのは『旗持ち』。監督が日本一を目指しますと言わないと、チームのみんなは目標が見えづらい。選手だけじゃなく、コーチも裏方さんも、2軍も3軍も含めての旗持ちになること。
あとは、野手の方ならば打撃も守備も走塁も教えることはできたから、試合が始まったら監督業、それまではコーチングをすることにしていました。
1軍選手の場合、調子が悪くなったからダメじゃなくて、悪くなった調子を早く戻してあげるのがコーチの仕事なんです。そのためにどんな練習をさせるのか、どんな意識を持たせるのか、精神状態もどうなのか。
自分は監督だったけど先頭きってやってたし、周りにはいいコーチもいたのでね。

そして2011年シーズン。前年はリーグ優勝を果たしましたが、クライマックスシリーズでロッテに敗れてしまいました。

あの時のロッテは成瀬投手が本当に良かった。2試合に投げてきて、それでやられたんだよな。2010年はソフトバンクとして初のリーグ優勝でした。だけど目標はリーグ優勝をしたうえで日本一になること。
本当に悔しかった。
だから2011年はそれまで以上に勝負に徹した1年だった。1試合も無駄にできない。勝ちにこだわった年でしたよ。

球団も内川聖一選手や細川亨選手、アレックス・カブレラ選手らを補強して打線に厚みが増しました。

この戦力をどのように生かすか。
ウッチー(内川選手)はずっと3番。開幕からしばらくは4番にカブレラを置いたのかな。上位は川崎(宗則)本多(雄一)の1、2番で1年間ずっと変わってない。得点源になる選手は小久保(裕紀)、多村(仁志)、松中(信彦)もいて、あとオーティズもいたか。
小久保はキャプテンだったので、野手全般のことは任せていました。下位打線では松田(宣浩)を何とかしないといけないと思って使ってた。
キャッチャーは細川と山崎(勝己)を併用して使いました。

内川選手は移籍1年目で首位打者を獲得しMVPにも輝きました。

右バッターであれだけの成績を残し続けた選手ですから、ホークスに移籍したからといって何も変える必要はない。今までやってきたことをしてくれればいいと思っていました。力を発揮しやすいシチュエーションになるように、こちら(首脳陣)が考えればいい。
ムネ(川﨑)が出たら本多が送って二塁に進めて、中軸で返してもらう。シチュエーションさえ作ってあげれば、選手は何をすべきか分かっていますから。余計なことは言わなくていいんですよ。

当時6年目だった松田選手については?

マッチは2軍監督時代に入団してきた選手。まずは2軍で鍛えて、ちょうど同じ時期に一緒に1軍へ。1軍コーチ時代も徹底して鍛えてた。2011年はそろそろ一人前にしなきゃと思って使っていた時期だと思う。
そしてこの年に144試合フル出場して25本ホームランを打った。

我慢しながらの起用でしたか?

我慢じゃないな。スタメンで出続けられる選手というのは状態の波が小さい。それが出来るレベルになったと思ったからレギュラーとしてずっと出したのだと思います。もともと、メンバーはある程度固定したいという考えがありました。責任を持たせたいから。ただ、そこまでの技術がなければ、使い続けるのは無理なのでね。
このころの若い選手では長谷川(勇也)なんかもいい形で打っていたな。

秋山監督のやりたい野球を表現できたシーズンでしたか?

いや、俺は3割30本30盗塁が全員に欲しいんだよ(笑)。

投手陣の方は?

実績のある投手はいました。和田(毅)、杉内(俊哉)にホールトン。そして攝津(正)がこの年から先発に転向した。
攝津本人がピッチングコーチに先発転向を申し出たんです。前年まで70試合以上投げてくれた、勝ちパターンのピッチャー。最初はうーんと思ったけど、そろそろいいかなと。
先発の頭数を考えても、理想は先発ローテを4人固定すること。あとの2枠の中で若い選手をうまく使いながらやっていければと考えました。

先発では山田大樹投手、岩嵜翔投手が台頭しました。

対戦相手によってどんなタイプの投手が有効なのか。それに当てはめながら起用しました。
山田ならば日ハム戦。当時は左投手に弱いという傾向が出ていた。岩嵜は西武戦。いい打者が多くて振りが強かった。でも、ブンブン振ってくるということは岩嵜のフォークボールが有効になる。
若かった2人が実績を作るためには、経験をさせて自信もつけさせなきゃいけない。自信は勝つことでついていくからね。

リリーフは?

馬原(孝浩)とファルケンボーグが後ろの2イニングを抑えて、前年まで攝津に任せた7回を金澤健人や森福(允彦)、吉川(輝昭)が担ってくれました。

ペナントレースはプロ野球史上で初めて、パ・リーグの相手5球団、および交流戦で当たったセ・リーグの6球団、すべての対戦相手に勝ち越した「完全優勝」を果たしました。2位を17.5差引き離しての優勝でした。

終わって振り返ればこれだけ勝てたけど、一生懸命やってるんだよ1試合ずつ。その積み重ね。
だからラクなことはないんですよ。

そして「鬼門」とされたクライマックスシリーズを全勝で突破しました。

CSのことをあまり覚えてないんですよね。鬼門と言われれば、そうだったなという感じ。
でも、(日本シリーズへ)行けるという自信があったと思う。突破できる。そういう感覚はあったと思います。

日本シリーズは中日ドラゴンズと対戦。落合博満監督と秋山監督の名将対決ともいわれました。

落合さんのことは、現役時代の同じパ・リーグのロッテに居たからその当時からよく知っている。考えるタイプの監督さん。尊敬しているし、なおかつセ・リーグで好成績を残すチームを作ってきた。
どんな野球をしてくるかな、うちはどうやって戦おうかなばかりを考えていました。

1、2戦は本拠地で連敗しながら、3戦目から敵地で3連勝しました。

珍しいケースですよね。本来DHのない戦いは得意じゃない。ただホームでの連敗は延長戦で、どちらも1-2。力負けという感じではなかった。この時は抑えの馬原があまりいい状態ではなかった。
2戦目だったかな、自分がマウンドへ行って『代わるか?』と聞いたことがあった。6年間の監督生活でマウンドに行ったのはこの1度きりでしたね。

7戦目までもつれた戦いを4勝3敗で制して日本一に。攝津投手が胴上げ投手となりました。

攝津は3戦目に先発したけど、その後はリリーフに回ってもらった。本当ならば馬原を行かせなきゃいけなかったのかもしれない。だけど、勝たなきゃいけない。絶対に落とせないという中で、攝津に最後を行ってもらった。
自分の形も大事したかったけど、それだけ勝ちにこだわっていたということかな。

当時、秋山監督の目には涙もありました。日本一になった時の思いは?

ホッとしたと思う。それだけだったね。
孫オーナーとの約束をやっと果たせた。球場に来て胴上げしたんだ。そう、ムネがマウンドのところに呼んでね。自分も孫さんの胴上げの時はバンザーイってやってたね。

また、2011年のシーズンスローガンは「ダ」。かなりインパクトがありました。

そうだったっけ?『フリキレ』は?あれが監督1年目(2009年)か。
フリキレは好きでしたね。ピッチャーは腕を振りきれ、打者はバットを振りきれ。勢いがある言葉じゃない。
前年が最下位だったし、どんどん勢いをつけなきゃいけない。結果を恐れずに振りきるんだよってハッパをかけながら、自分もコーチも選手たちに言っていました。
『ダ』はお立ち台で選手がファンと一緒に叫んだりして、それで浸透して親しまれたのはあったかもね。

現在は野球解説者として活動されていますが、今のホークスへのエールなどをお願いします。

やっぱり周りの人たちは常勝チームと見ている。その期待に応えていかなきゃいけない。やっぱり日本一にならなきゃ。
選手のみんなにはもっとタフになってほしいかな。本当にいい選手が多いんです。その中で、特に若い人たちがもっとがむしゃらに、攻めていくとかチャレンジするとかそういう姿を見せて欲しいですね。

6月24日、ダブルアニバーサリーデーではセレモニアルピッチもあります。意気込みなども是非。

ホームランを打てと言われたら難しいけど投げるのは大丈夫(笑)。
自分のことより、その日チームが勝ってくれるのが一番。リーグ戦が再開して最初のカード、しかも上位を争うオリックス戦。大事な試合になります。チームの勝利を願って投げますよ。