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Memorial Interview

「ダブルアニバーサリーデー」に登場するゲストの皆さんがホークスの思い出・ドームの思い出を振り返る連載企画。
第4回は5月27日(土)のセレモニアルイベントに登場するホークスOBの松中信彦さん。
「ダイハード打線」とも称される歴史的な最強打線で日本一を成し遂げた2003年、4番打者を務めた松中さんに当時の思い出やホークスの強さの所以を語っていただきました。

ホークス一筋19年の現役生活。その中で2003年はどのような印象ですか?

まず開幕前のオープン戦で小久保(裕紀)さん(=現2軍監督)が右膝を大怪我されて、そのシーズンは試合に出場できなくなりました。
その中で僕が4番を打つことに。それに加えて選手会長に就任したばかり。重圧がいっぱいのしかかってスタートした年でした。

小久保選手の離脱は本当にショックでした。

あの頃のホークスは、やはり小久保さんが先頭に立って野手を引っ張ってくれていました。その中で僕も選手会長になりアドバイスももらいながら、だけど一方で小久保さんを超えるような選手になりたいという思いを持っていました。
4番打者と選手会長。その二つと自分はどのように向き合うべきか。
そんな葛藤もあり、開幕から1か月ほどはあまりいい成績も残せなかったシーズンでした。

不振脱出のきっかけは?

ある時、当時の王貞治監督から部屋に呼ばれました。一旦打順を6番にするから、もう一度調整してくれと。調子が上がればすぐに4番に戻すからと言われて、必ず絶対にチームに迷惑をかけないような4番打者になって戻るんだという思いでやっていました。
その時間をいただけたのが良かったと思います。

シーズンが進むにつれ、当時「ダイハード打線」の愛称がつけられた打線が猛威を振るいました。

野手陣の気持ちとしては、やはり小久保さんという核になる人が不在になり誰が先頭に立つんだという中で『俺がやらないと』『俺も』『いや、俺も』と、チーム内競争みたいな感じがありました。それが上手くかみ合った。
シーズンチーム打率.297は今もプロ野球記録。史上最強だと思います。たぶん、今でもどのチームにだって勝てると思います。

仲良く手を取り合う一体感というより、お互いが刺激をしあって高め合う関係だったように見えました。

自分やジョー(城島健司・現会長付特別チームアドバイザー)、井口(資仁氏)、そして外国人のバルデスやズレータ。中軸を打つ選手はチームのためにどうすれば優勝できるかを考えながら、その中で個々をライバル視しつつ、自分がチームをしっかり引っ張ろうという思いを持ってやっていたと思います。
今の時代とは一体感のつくり方は違うでしょうね。今の若い選手は自分の成績を重要視しているなと感じてしまうときもあります。

この年は1試合20得点以上が4度。26-7(2003年7月27日)や29-1(同8月1日)の圧勝劇も。どんな雰囲気でしたか?

戦いを重ねるたびにチーム全体で自信がついていて、極端にいえば3点くらい先行されても『どうぞ、どうぞ』『大丈夫』くらいの気持ちがありました。自分も打てるし、他のメンバーだって打つだろうという感じでした。
もちろんピッチャーも頑張ってましたが、先発陣は(斉藤)和巳(現1軍投手コーチ)がエースで、(和田)毅と(新垣)渚が1年目、そして杉内と若かった。
その意味では打線が打つことで彼らも成長できた1年だったと思います。

ホークス打線は淡々と攻撃を重ねるというより、どれだけ点差が開いても集中力も気迫も途切れることはがなかったように見えました。

あの当時は毎日練習をして試合もしてというのが当たり前。コンディショニング優先とか体力温存が第一という考え方ではなかったと思います。試合に出るメンバーはほぼ固定で、ずっと出続けましたから。
そうでなければ、あのチーム打率にはならないですよ。チーム内の競争という意識がそうさせたのもあったと思います。

そして松中さんにとっても、王監督は特別な存在だったのでは?

1人の選手として、チームがどうしたら勝つかということをプロに入った時から教えてもらいました。勝つチームと負けるチームはどこが違うのか。それをすごく教わったと思います。
また、打者としてはストレートを1球で仕留めるという考え方。そして練習では120%の力で打つという考え方です。
それがあったから、まだホームランテラスのなかったこの広いドームを本拠地にしても352本のホームランを打てたと思いますし、この翌年の2004年に三冠王を獲ることができたのも王監督の教えがあったからだと思っています。

2003年は三冠王の前年でした。

じつはこの年の終盤が僕の分岐点でした。
8月か9月頃に右膝を痛めてしまい、左足1本で打つことしかできなくなった時期がありました。その中でシーズンを戦い、日本シリーズも足を引きずりながらプレーしました。
僕はもともとすり足打法のスタイルでしたが、この怪我をきっかけに翌2004年から右足を上げる一本足打法に変えたんです。本来は形(フォーム)を大事にするタイプでしたが、別にどんな形でも打つことができると気づかされたのが2003年の終盤だったんです。
自分の中の引き出しが増えたシーズンでもありました。

2003年のダイハード打線が記録したチーム打率.297の日本記録はなかなか破られないのでは?

そう思います。それに今の野球では多分出てこないでしょう。
数年前から複数ポジションを守れるとか、足の速い選手が重要視されるようになりました。そうなってくるとホームラン打者のようなタイプは減ってくると思います。
自分たちの頃は「3割、30本、100打点」を目指す選手がたくさんいて、なおかつ個性の強さもありましたから。

そのダイハード打線の4番を打ち続けたところの思いは?

もちろん誇らしいですし、チームメイトにも感謝ですよね。あのメンバーの中で4番を打たせてもらい、チームを引っ張ってリーグ優勝をして日本一にもなれた。自信になりました。
やっとチームの中心選手として活躍できたと思えたシーズンでした。

5月27日の「ダブルアニバーサリーデー」では、日本シリーズで激突した阪神タイガースの当時のエース、井川慶さんも来場されます。日本シリーズの思い出は?

今は交流戦がありますが、当時はありませんでした。
阪神は18年ぶりのリーグ優勝でものすごい盛り上がり。応援が今までに感じたことのない圧力でした。
1、2戦目は福岡ドームでしたが、本当にびっくりするくらいでした。

井川さんはその年に20勝をマーク。今だから明かせる対策などあったのでしょうか?

いえ、ありませんでしたね。
僕らは自分たちの打撃に自信を持っていた。もし、僕が打てなくても後ろの5番を打つジョーが打ってくれると思っていましたし。
もちろん阪神も井川投手をはじめ、いい投手はたくさんいました。特にリリーフエースのジェフ・ウィリアムス投手はすごく覚えています。こんなに曲がるのかと驚きました。

第1戦、第4戦で井川さんが先発し、松中さんは第4戦での対決でホームランを放ちました。

甲子園のバックスクリーンへ。打ったのはカーブです。
僕は左投手との対戦では内角直球か、内から中に入ってくる変化球しか狙っていなかった。井川投手のカーブは少し軌道から外れるので、変化球が来るとわかったんです。あとは体が反応するか。膝痛の影響で左足一本で打つようなスタイルだったので、その分しっかり溜めて反応できたのかなと思います。
ただ、甲子園での阪神ファンの迫力は、もちろん福岡ドームの比じゃなかった。
『早く帰りたい』がチームみんなの合言葉でしたよ(苦笑)。9割以上が阪神ファンでしたし、声援で地響きがすごいんです。ホームランを打った時は逆にシーンとなって、余韻に浸るとかまったくなく、さっさとベース一周してベンチに戻りました。
ホークスは2戦目まで地元で連勝。『甲子園でも連勝して4つで決めよう』なんて話していましたが、阪神ファンの圧倒的な雰囲気にもやられてしまい結局は甲子園で3連敗を喫してしまいました。

それほど甲子園で感じた圧力はすごかった?

球場全体が阪神ファンというのもすごかったですが、ファーストを守っていて普通はライトスタンドと三塁側スタンドの声援って音がずれて聞こえるんです。だけどあの時の甲子園は1つの大きな音がドーンとくる感じでした。
なかなか経験できない景色を見させてもらいましたが、ホークスの選手としては結構堪えました

第6戦から舞台は再び福岡ドームへ。遠征から博多駅に戻った時、多くのホークスファンが出迎えてチームにエールを送った出来事が語り草になっています。

甲子園での恐怖感から一気に安心感へと変わりました。僕もチームとしてもすごく勇気をもらいました。
甲子園での3連敗のうち2つはサヨナラ負け。雰囲気は最悪で、最初に2連勝した勢いなんて吹き飛んでしまっていましたから。
第6戦は井口が初回からホームランを打ってくれて、そこから息を吹き返しました。
それにホークスファンも阪神の応援に刺激を受けたのか、6戦目以降はいつも以上に力強い声援を送ってくれたように感じました。

運命の第7戦は松中さんが初回に2点二塁打。投げてはルーキーだった和田毅投手が完投して見事4勝3敗で日本一を果たしました。

僕が打ったことよりチーム全体が盛り返していたので、何とかなると思っていました。先発が毅でしたからね。『あいつは持っている。それにゲームは少なくとも作ってくれる』と思っていました。
ペナントレースは千葉マリン(現ZOZOマリン)で優勝を決めて、選手会長だったので胴上げもしてもらった。そして地元福岡ドームで決めた日本一。
自分の中でやり切ったと胸を張れる2003年でした。

常勝ホークスの系譜をつなぐ意味でも大切な1年でした。

投手陣は若かったし、野手ならばムネ(川崎宗則選手)が実質1年目。これからホークスを引っ張っていく選手たちがたくさんの経験をしたシーズンでした。日本シリーズでの雰囲気も含めて。逆にそれでホークスファンの温かみも再認識したわけですし。
次世代にチームの中心的役割を渡すためのスタートを切れたのが2003年だったのかなと思います。

OBとして今もホークスのことは気になると思います。

もちろん。勝ってほしいと思いますし、なにより王会長が作り上げたものを無くしてほしくないという気持ちが一番です。
ホークスの基盤は王イズム。王さんの野球を叩き込まれた自分たちがいて、次の世代、その次の世代へつながって今があります。
未来にもそれは必ず受け継いでいくべきです。

5月27日の「ダブルアニバーサリーデー」では、福岡ダイエーホークスの「FDH」ユニフォーム姿でグラウンドに登場し、井川慶さんとの1打席勝負に臨みます。

常勝軍団の始まりがこのユニフォーム。そのユニフォーム姿を是非ファンの皆さんにも見ていただきたいですし、一緒に懐かしい気持ちに浸りたいです。