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Memorial Interview

「ダブルアニバーサリーデー」に登場するゲストの皆さんがホークスの思い出・ドームの思い出を振り返る連載企画。
第2回目は4月2日(日)にセレモニアルピッチを務めるホークスOBの湯上谷竑志さん。
ドームが開業した1993年に二塁手のレギュラーとして活躍した湯上谷さんに、当時のチームの思い出やドームが誕生した時の心境を振り返っていただきました。

1984年ドラフト2位で南海ホークスに入団。最初のチームの印象などは?

出身が富山。当時は巨人戦しかテレビ中継がなかったので、セ・リーグの球団しか知らなかった。だからドラフトで指名してもらってから色々調べました。
僕は石川の星稜高校に通っていたのですが、ちょうど1984年に南海が金沢での試合でウエスタン・リーグ優勝を決めたという記事がありました。ということは、若くて力のある選手が多くて、これから強くなるチームなのかなと思ったのが最初でした。

当時は大阪が本拠地でした。

合宿所はファーム本拠地球場もあった中百舌鳥(なかもず)だったんですが、今の筑後のような施設とは大違い(苦笑)。申し訳ないけど汚くて小さな施設。すぐ横は団地がありましたね。
一軍本拠地は大阪球場。最初に足を運んだ時がちょうどナイターをやっていたのですが、スタンドに入る通路での光景は今も覚えています。
照明塔から放たれるカクテル光線の眩しい光が通路に差し込んでいて、スタンドに出たらパッと広がった光景がすごかった。その後実際にプレーしてみたら結構暗いなと思ったんですけど(笑)。
でも、あの時は眩しかった。そして応援団の太鼓の音が聞こえて、ここで野球をやるんだと胸が高鳴ったものです。

高卒入団ながら1年目の8月以降にはスタメン定着されました。

1年目だろうが目立たないといけないと遮二無二やりました。猛打賞も記録したことがあって、数年前にいま巨人にいるオコエ選手が高卒1年目の時に猛打賞を打った時に自分の名前も新聞に載ったんですよ。
あまり多くの人が達成していない記録をやれたのは嬉しいことですよね。

入団4年目のオフにチームが福岡移転。1989年からダイエーホークス誕生となりますが、どんな心境でした?

一軍機会も増えて、大阪の街にもようやく馴染んできた頃だったのでショックといえばショックでしたが、次の本拠地になる平和台球場でも何度かゲームがあったので福岡の街にも訪れていました。良い街だなと感じていたので、それほど抵抗はなかったですね。

ホークスが福岡に初めて来て、チャーター機のタラップをライブエメラルドグリーンのジャケットを着て降りてくる場面はたびたび紹介されますよね。

じつは僕、あの場にいなかったんです。
1988年秋のキャンプ中に右脛を骨折して手術を受けました。そのため、ダイエー初年度は一軍出場がありませんでした。

しかし、翌1990年から3年連続フル出場でした。

リハビリはもちろん、あらゆるトレーニングをしました。それが奏功したのかもしれませんが、復帰後も影響はゼロではありませんでした。
今も手術痕が残っていますし、時々疼きますからね。とにかくこんな体でもやれるところを示したい意地もありました。

ただ、チームとしては苦しい時代でした。

必死にプレーはしたし、勝つために何が必要なのかと先輩の佐々木誠さんや岸川勝也さん、加藤伸一さんとかと僕はよく話をしていました。
ただ、当時は西武ライオンズがとにかく強かった。ピッチャーでは郭泰源さんとか渡辺久信さん、渡辺智男。バッターも秋山幸二さんとか清原和博がいてタレント揃い。そこに若くていい選手も入ってくる。
ダイエーが勝つためにどうすれば、となったときに当時の中内㓛オーナーが話されていたのですが、ハード面を整えるのが大事なんだと。立派な球場や施設などしっかりしたものを作り、選手が入団したくなるような環境を整えないといけないと言われていました。それが福岡ドーム(現PayPayドーム)だったというわけです。

当時の選手たちは、どのような形でドーム誕生を知ったのですか?

今のようにネットがある時代ではないので、新聞でみんな知りました。そしてロッカーなどで『本当かな?』『いつだろう?』なんて言い合っていましたね。ドームと言われても本当僕ら何も分からなかったから。『平和台球場に屋根がつく感じかな?』なんて話もありました(笑)。

実際、最初にご覧になった時はいかがでしたか?

ドームの屋根って3枚構造になっているのですが、1枚目の屋根が出来た頃にダイエーの選手みんなで見学に行ったんです。
広さや大きさに圧倒されました。昔は12球団本拠地球場よりも地方球場の方が広いと言われていて、平和台球場は両翼92mしかありませんでした。福岡ドームは100m。それに外野フェンスの高さが5.8m。これはホームランが少なくなって、攻守ともに野球自体が変わると思いました。
スリリングな野球になって、足の速い選手や肩の強い選手が優遇されるようになるのは僕にとっては嬉しかったです。

1993年4月17日、最初の公式戦(近鉄戦)には「2番セカンド」でスタメン出場でした。

試合前に屋根がバーッと開いて、華やかなセレモニーもすごかった。日本で2番目に出来たドーム球場だったけど、先に出来ていた東京ドームなんて比じゃない大きさと立派な設備。メジャーの球場にも劣らないと感じました。
まさに選手がホークスに来たくなる、ここでプレーしたいと思う。それが福岡ドームだったのです。

2000年に引退され、その後球団職員に。観客動員アップのため当時は斬新だった企画を次々生み出したアイデアマンでした。

引退間際の頃は控えが多く、ベンチから野球を見ることが多かったのですが、そうすると三塁側スタンドが目に入りますよね。チームは強くなり始めた頃ですが、ホークスの一塁側は埋まっても三塁側は空席が目立っていたんです。
引退して何かできないかと考えて、知り合いに漫画家というか絵を描く仕事をされている方がいたので、選手の似顔絵を描いてもらいそれをプリントした『Tシャツつきチケット』を販売しました。

当時は特典付きチケットというアイデアは殆どありませんでしたし、それが後の「鷹の祭典」につながったのかもしれませんね。

他にも、当時は選手のユニフォーム以外の写真が表に出る機会が少なかったのですが、やはりカッコイイじゃないですか。
だから選手の顔だけのモノクロ写真でポスターを作ったりしました。

その後は寮長やコーチも務められました。

中村晃選手、今宮選手、柳田選手あたりは僕がいた頃の寮生でした。やはり今も彼らの活躍は特に気になりますね。

開業30周年を迎えたPayPayドームは、人々にとってどんな場所や存在でいてほしいですか?

かつての僕がそうだったように、人の心には憧れという感情が必要なものだと思います。憧れがあるから目標を立てて頑張ることもできますし、そこに向かうために色々な成長もできる。仲間を大切にしたり、相手をリスペクトしたり。野球やスポーツのいいところでもあります。そんな憧れの感情を抱くきっかけになるのがPayPayドームではないでしょうか。
末永く憧れの聖地であり続けてほしいと思います。それがPayPayドームの使命かなと思います。

4月2日、ダブルアニバーサリーに向けて意気込みをお願いします。

始球式を自分のポジションから見ることは沢山あったけど、投げるのは生涯初めて。
先日マウンドに立ってみたけど遠かった(笑)。今のままやったら森口博子さんに打たれちゃうかもね(笑)。